海の向こうの、大切な場所。
2012年 06月 08日
祖母の死から3ヶ月後、5月の東京で桜井さんに出会う。これが、はじめの大きな一歩だった。その桜井さんとは、たった一人で、留学をサポートする会社を運営、本人もワーキングホリデー経験者、世界一人旅もしたツワモノである。その桜井さんと二人きり、個人カウンセリングで自分のことを話すと、目の前の桜井さんの表情が険しく変わった。「冒険したいけれど、怖いから安定が欲しい」という私の本音を見抜き、私を叱った。「自分のやりたいことの責任、取らないでどうするの。」たしか、そんなことを言われたと思う。初めて会った人に、きつく言われたことに驚いたが、当たっていたから言い返す言葉すら見つからなかった。
その後に行われた10人ほど集まった説明会で、オーストラリアでの生活についていろいろ聞くうちに、漠然とした不安は小さくなり、「住めるかも?」と思い始めていた。そして、東京の説明会から数日後、WHのビザを申請した。親にも友人にも言わずに。動こう、と決心した。
それから4ヵ月後の9月には、わたしはオーストラリアに立っていた。1年で帰る予定が、2年と半年に延びたのは、予想外ではあった。が、自分が自分でいられる場所を見つけた居心地のよさは、帰国よりも滞在を引き延ばす方が自然だった。
初めて降り立った地は熱帯のケアンズ、語学学校へ通う。そこから車で2時間ほどのバナナの町、イニスフェイルでファームの仕事、再びケアンズ暮らし、その後は資金稼ぎにまたバナナファーム。それからエアーズロックを旅し、アリススプリングスへ。3日滞在の予定がふとしたきっかけで、4ヶ月暮らすことになったその場所は、一番思いいれが強い。そこでセカンドビザを申請し2年目に入り、今度は南のアデレードへ。シドニーでクリスマスとニューイヤーを迎え、途中日本に一時帰国。またアデレードに戻りビザが切れる頃に、「もう一度英語力を確かめたい」とスパルタの語学学校へ学生ビザで通う。旅も仕事も勉強も、すべて必死だった。
もしも、英語だけ身に付けたいなら、日本国内で勉強するだけでも充分だろう。しかし、多くの移民から成り立つオーストラリアという国で、さまざまなバックグラウンドを持つ人々と出会い、生活を共にし、その空気を吸いながら暮らして身に着くものは言葉だけではない。
もちろん、楽なことだけじゃない。嫌な思いだってするし、痛い目にも遭う。苦しくなったり辛くなったりもする。「疑似体験で英語を学ぶ」のと全く逆で、自分の感情を揺さぶられたり、目の前に突きつけられる現実を乗り越えるからこそ、自分なりの英語が身に着いていく。感情や体験を伴うことこそ、リアルだ。その身を持って得た経験や知識は、誰にも奪うことができない。旅を続け、荷物がどんどん軽くなるのと同じ速度で、そういった自分の中に蓄積されるものは大きく増えていく。手に持てるなにかより、その財産のほうが重要だと気づくために、わたしはオーストラリアに行ったのだろう。そこでの時間は、わたしを大きく変えた。
なにかを掴むためには、他のなにかを手離すことも必要。日本でくすぶっていた気持ちを捨て、行動を選んだ。具体的な行動は、余計な不安を消してくれる。限られた時間を、自分の魂を躍動させるために、自分の夢に正直でいるべきだ。そして、その夢を広い心で応援してくれるのが、オーストラリアという国。ちょっとの失敗なんて、“No worries!”
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今日は、わたしの「略歴書」として、留学エージェンシー「アクティブウーマン」のパンフレットに載ったものをこちらに転載。 (ブログ用に少し直した部分もあります)
「アクティブウーマン」は、大手の留学斡旋会社とは違い、勧誘は一切なし、手取り足取りの過剰なサポートもありません。しかし、桜井さんは必ず要所を押さえる、頼れる姉貴です!
昨年、新しくパンフレットを作るということで、代表の桜井さん直々にお願いされました。 「海外に飛び出したい誰かの背中を押せるなら!!」と快諾して書かせていただきました。
今後は、オーストラリア滞在中のことに関しても書いていきます!